人気の記事


プロフィール

2024年11月12日

藤野ナオミ

 

「それでも自分を生きていく」のサイトを訪れていただき、ありがとうございます。

しかも、「プロフィール」まで見ていただけるなんて、感激です!

 

私は、心理カウンセラーとして、これまでの26年間、小学生から60代までの方々に、心理カウンセリングをおこなってきました。

そして、痛感したことがあります。

苦しみやツライ思いを抱え、もがきながら生きている人こそ、自分らしく生きることを願っている、ということを。

 

実は、私自身も、そんな人間の一人です。

 

私自身が心軽やかな日々を送りたいを願って、集めた知識、悪戦苦闘、試行錯誤したことをもとに、このブログを書いています。

苦しみやツライ思いを抱えているあなたが、そのままの自分をしっかり見つめて、「自分を生きていこう」と腹をくくり、心軽やかな日々を送れますように!

 

身の上話(ヒストリー)

私自身、「人とはちょっと違う特徴(発達凸凹)」「傷つく体験」が加わり、長い間、「苦しい思い」を抱えて生きてきました。

私が、そうなるにいたったヒストリー、心軽やかな日々を夢見て、悪戦苦闘、試行錯誤してきた経緯など、おつき合いいただけると、嬉しいです。

 

 

母は、なかなかにエキセントリックな人でした。

 

私にだけ、ひどい態度を取ります。

母の思い通りにならないと、私をののしる、ほかの兄弟と比べてけなす、怒鳴る、無視する。

そして、母の口からは、父、父方祖父母、父方の親戚に対するグチ、悪口、罵詈雑言があふれ出てくる。

 

同居していた父方祖父母、近くに住む父方の親戚との関係などで、母が苦労していたのは知っています。

気持ちの行き場がなかったのでしょうね。

 

私は、母の八つ当たりの対象であり、母の心にたまった汚物のごみ箱でした。

 

小学校に上がるまで

父の仕事の関係で、山口県で生まれ、東京都で1年間、暮らしました。

優しい母、優しくて面白い父、1歳年下の可愛い弟と一緒に過ごす、穏やかで楽しい日々。

仲の良いお友だちを呼んで、お誕生日のパーティをしたり。

近所の公園で遊んだり。

父方曾祖母のお葬式で、飽きてしまって、おふざけをして、父を困らせたり。

 

ところが、私が3歳半のとき、その環境が一変します。

 

様々な事情により、父が仕事を辞め、実家(福島県)へ戻ることになったのです。

私たちは、父方祖父母と、そして、初めの1年ほどは、父の弟(叔父)夫婦とも、同居することになりました。

しかも、父は、新しい仕事を始めるために、不在が続く状況。

まだ20代半ばだった若い母は、父がいない状態で、姑、舅、小姑に囲まれ、暮らすことになりました。

 

母が語ったところによると、同居を始めて1ヶ月で、母は10kgも体重が落ちたそうです。

祖父母の仕事(農作業)を手伝わされてヘトヘトだったうえ、「嫁の務め」として、家事は全て任される。

作った料理は、一家の大黒柱だった祖父がほとんど食べてしまい、幼い私と弟には十分に食べさせられない。

父に何かお願いすると、「仕事で疲れているんだから、頼むもんじゃない」と、祖父母に怒られる。

父は、祖父母の言いなりで、母の味方になってくれない。

叔父夫婦からは、嫌みばかり言われる。

母の偏った見方も多分に入っているでしょうが、母は、毎日、泣いて暮らしたそうです。

 

実は、私には、父方祖父母との同居を始めてから1年間の記憶がありません。

トラウマになるようなツライ体験の記憶は、欠落することがあると言われています。

ということは、3歳半~4歳半の私にとっても、かなり過酷な環境だったに違いありません。

 

私には、おそらく、この時期に生まれた、恐怖に近い「信じ込み(ビリーフ)」があります。

私の「コアビリーフ(ビリーフの根源にあるもの)」です。

 

母に嫌われたら、生きていけない。

 

記憶が欠落しているので、何とも言えませんが。

同居のストレスで心が壊れてしまった母は、幼い私が、「ママに嫌われて、捨てられちゃう」と恐怖するような言動をしていたのでしょう。

 

さて、父方祖父母との同居を始めて1年後、母は就職し、私と弟は保育園に預けられます。

母は、働いてお金を稼ぎ、幼い私と弟に、お腹いっぱい食べさせたいと思ったそうです。

 

ところが、その保育園は、しつけという名目で、虐待まがいの対応をする施設でした。

私は、「保育園に行きたくない」と泣き、母を困らせます。

一歳年下の弟は、文句も言わずに、保育園に通っているのに。

 

私は、徐々に、母から、うとまれていきます。

母に怒られることも増えていきました。

 

※心の中で「オニババ」と呼んでいた、虐待まがいの対応をする園長に、イメージの中で復讐する話は、こちら。

 

小学生のとき

小学校に上がると、母に怒られることが、さらに増えました。

母にとって、私は、「母が嫌がることを平気でするダメな子」だったからです。

 

カマキリの卵を山ほど集め、虫かごに入れておいたことを忘れてしまい、春先に孵化した子カマキリが何百匹と家の中を動き回る。

寝転がりながら足でいじって倒した扇風機が、金魚が入った大きな水槽に当たって割れてしまい、家の中が水浸しになる。

一人で寝るのが怖いため、「お腹が痛い」とウソをついて、夜中に父と母の寝室に入りこみ、父と母を起こしてしまう。

面倒くさいからと、家の手伝いをやらずにごまかす。

学校の支度が遅いため、登校班に間に合わず、遅刻ギリギリで、一人で走って登校する。

 

母が嫌がることをせず、やるべきことをきちんとこなす弟とは、大違い。

母が、弟をほめ、私のことは弟と比べて、ののしることが、日常茶飯事になっていきます。

 

そして、母は、父、父方祖父母、父方の親戚のグチ、悪口を、私に聞かせます。

私ぐらいしか、聞き役がいなかったのでしょう。

そんな母の言動が、小学生の私にじわじわと影響を与えていきます。

 

私は、さまざまな「心身症(心の問題が身体に現れる病気)」を発症するようになりました。

 

学校から帰ってくると、毎日、食べた給食をすべて吐く。

原因不明の便秘のため、病院へ行って治療をおこなうと、白い便が出る。

足の甲にガングリオンというこぶができ、注射器でゼリー状の内容物を抜き取られる(すごく痛い)。

 

「心身症」という概念が、普及していなかった時代だったのでしょう。

誰からも心配されることなく、毎日を過ごしていました。

 

家でのうっぷんを晴らすためか、私は、学校ではワガママざんまいでした。

 

上級生のお姉さんたちが、休み時間に遊んでくれると、ベタベタ甘えまくる。

休み時間が終わるチャイムが鳴ると、「教室に帰らないで~」と泣き叫び、お姉さんたちを困らせる。

クラスの気に入らない子に、担任の先生に気づかれないような意地悪をする。

 

いやはや、担任の先生が母を呼び出さなかったことに、感謝するばかりです。

 

中学生のとき

中学に入学すると、心身症がなくなり、学校では、大きなトラブルなく、過ごしていました。

 

もちろん、年齢相応に、大変なこと、腹が立ったこと、嬉しいことなど、体験しています。

クラスメイトや部活の仲間から、嫌がらせをされたり、私も報復したり。

部活(バレーボール部)に嫌気がさしたけれど、最後まで続けたり。

人員不足を補うために誘われた合唱部の練習に励み、地区大会で賞をもらって、感激したり。

 

ただ、クラスでは、ちょっと浮いた存在でした。

休み時間になると、仲良し女子グループで集まり、おしゃべりしたり、一緒にトイレに行ったりするのですが。

私は、そのことにあまり意味を感じず、自席でボーっとしており、隣の席の男子生徒と話をしていました。

 

今から思うと、いじめにあわなかったのは、幸運でした。

熱心な担任の先生から、「ナオミは、なんか、変わってるよね~」と言われながら、温かいサポートを受けることができたお陰かもしれません。

 

一方、家では、私の攻撃性が炸裂し、大変な状況になっていきます。

 

家では、相変わらず、母からの叱責、愚痴の聞き役になっていました。

1歳年下の弟は、私と同じ中学校で、生徒会の副会長を務めたことがあるほど、人望も厚くてね。

私は、しょっちゅう弟と比較され、いかにダメな人間であるかを、母から罵倒される日々でした。

 

いつかは、母に認められたいと思っていた私。

同居していた父方祖父母の悪口を、母からさんざん聞かされていたので、私は祖父母を「敵」と認識し、「母のためにいつか成敗してやろう!」と思っていました。

 

両親や弟妹が、たまたま留守だった、中3の秋。

祖母が作った料理がマズいといちゃもんをつけた私は、祖父母と大ゲンカをします。

「してやったり!」ぐらいに、思っていたのですが……。

 

翌日、そのことを知った父が、私のえりくびをつかんで怒鳴りつけるという事態に発展してしまいました。

私は、大泣きしながら、父とも、大ゲンカをくり広げます。

母は、この好機を逃すまいとばかりに、私と弟妹を連れて、家を出ることになりました。

 

父は、祖父母のもとに残り、別居状態。

母は、転居した別宅で、羽を伸ばし、意気揚々とした日々を送る。

私は、「自分のせいで、とんでもないことになった」と、激しく後悔するようになりました。

 

一歳年下の弟は、転校を嫌がり、在籍していた中学に、時間をかけて通学することになったのですが、文句ひとつ言いません。

母が、そんな弟を褒めるので、できの良い弟と、できの悪い私の対比が、浮き彫りに。

そのうえ、大好きだった父からも嫌われてしまった。

 

私は、「ダメ人間」の認定を正式に受けたような心持ちになりました。

 

高校生のとき

高校に入学してすぐ、無気力に覆われます。

 

そのせいか、高校時代の記憶は、薄く、あいまいになっています。

ツライことを記憶から遠ざけようとする、解離症状の一種でしょう。

 

家では、相変わらず、母の気の向くままに罵倒される一方で、母の愚痴の聞き役を務める。

転居を機に同居するようになった母方祖母からも、うとまれ、私だけ冷たくされる。

自室に引きこもり、ラジオを聞くこと、読書だけが楽しみ。

 

学校へは、遅刻ギリギリで、かろうじて登校するような状態。

部活も続かず、1学期で退部。

友だちもいない。

孤立して目立たないよう、適当なグループに、金魚のフンのようにくっついているだけ。

 

成績は、下の下。

あまりの成績の悪さに、担任に呼び出されたことも。

高校卒業後は、専門学校へ行って、適当な職場で、適当に働こうと考えていました。

 

ところが、母が、大学に進学するよう勧めてきたのです。

 

母は、小さいころから、ずっと優等生。

高校では、トップクラスの成績だったとか。

ところが、家庭の事情のために、大学進学をあきらめざるを得なかった母。

 

私よりバカが大学へ行った!

私の生きがいは、子どもたちを大学へ行かせること!

母は、そんなことを言い出したのです。

 

私はふと、思い立ちます。

母は、子どもたちを大学へ行かせることに執着している。

家から離れた大学へ進学したら、堂々と家を出ることができる。

そうしたら、自由を手にすることができる!

 

そこで、私は、母に伝えてみました。

私の能力だと、国公立の大学は無理。

私立大学だったら、何とかなるかもしれないけど、福島には少ないんだよね。

東京なら、たくさんあるんだけどなあ。

福島で暮らしていた私が、東京の大学へ行くことになれば、一人暮らしができる、と思ったからです。

 

そして、母から、「大学に合格するなら、どこの大学でもいい」という返事をもらって、こっそりガッツポーズ。

「家から離れたい!」という一心で、高2から、がむしゃらに勉強を始めました。

 

とはいえ、落ちるところまで落ちていた成績は、そんなに簡単には上がらない。

高2の夏ころから、同居するようになった父とは、ぎくしゃくした関係。

お酒を飲んで酔った父から、「女が大学なんて行くもんじゃない」と反対され、私が言い返すと、言い合いになる。

 

学校にも、家にも、居場所がない。

 

高3の初めごろ、学校へ行く気力がなくなったことがありました。

「頭が痛い」と嘘をつき、ずる休みをしていたのですが、1週間も続くと、母にバレてしまった。

布団をはがれ、背中を蹴られるようにして、登校を再開しました。

 

心の支えは、いつの日か、東京で一人暮らしをすること。

東京の私立大学に照準を定め、英国社の三教科のみを必死に勉強する毎日でした。

 

高3の2学期ころから、ようやく少しずつ成績が上がり始めました。

「何とかなるかも」という期待の一方、「大学に落ちたら、どうしよう」という不安にさいなまれる日々。

大学受験の前は、ストレスによる微熱が、数ヶ月も続きました。

 

7校の私立大学を受験して、合格したのは、たった2校。

それでも、実家(福島)から離れた東京の私立大学に合格することができました!

 

※友だちがいなかった高校時代の私を思って書いた記事は、こちら。

 

大学生のとき

晴れて、大学生となり、夢に見た一人暮らしがスタート。

母から解き放たれたような開放感で満たされます。

 

大学では、演劇サークルに入り、お芝居にも挑戦。

役を演じることで、自分ではない、別の人間になりたかったのです。

演劇サークルでは、「心の友」と呼べるような友だちとも、出会うことができました。

 

これまでの鬱々とした日々を吹き飛ばすような、楽しい学生生活!

本当に充実した毎日!

 

実家(福島)には、お盆と年末年始ぐらいしか、帰りません。

父は、東京で仕事があると、私を食事に誘ってくれ、父との関係は改善しました。

 

母から距離を取ると、母が情緒的に不安定な人だということが分かってきました。

父や私が言ったささいなひと言で、ひどく傷つき、部屋のすみで毛布にくるまって、これ見よがしに泣き続ける。

急に怒り出した母に、「なんで怒ってるの?」と尋ねると、「分からない!」と逆ギレする。

母の気分次第で、私に文句を言い、罵倒したかと思うと、急に優しくなる。

 

実は、幼い頃から高校生まで、母からひどいことを言われたり、されたりしたことの記憶は、曖昧です。

けなされた、罵倒された、弟妹と比べてダメ人間扱いされた、といった記憶が、ぽつぽつと残っている程度。

私が、自分自身を守るために、ツライことを記憶から遠ざけようとする「解離」が働いているのでしょう。

母から物理的に離れて、自分を守ることができるようになった大学生以降、母の言動をハッキリ記憶できるようになりました。

 

大学では、演劇サークルに所属していた男子学生から嫌われ、嫌がらせを受けるようになったため、うんざり。

大学2年の終わりに、演劇サークルを辞めてしまいます。

 

その後は、就職が心配だったので、教職課程で学んだり、マスコミ研究室に入ったり。

マスコミ研究室は、小論文や面接対策の勉強ができると聞き、「就職試験のときに役に立つかも」ぐらいの、軽い気持ちで入りました。

ですが、真剣にマスコミ業界への就職を目指す仲間たちに触発されます。

「私も人を元気にする仕事がしたい!」と、マスコミ業界を目指して、就活に励むことになりました。

 

就活をめいっぱい頑張ったにも関わらず、大手のテレビ局、ラジオ局、出版社は、ことごとく不採用。

かろうじて、ケーブルテレビ局に拾ってもらいました。

 

会社員のとき

ケーブルテレビ局に入社。

海外の番組を素材にした、スポーツ番組、ニュース番組、エンターテインメントエンタメ)番組を制作する仕事に携わることになりました。

AD(アシスタント・ディレクタ―)としての業務がメイン。

 

プロデューサーから、「エンタメ番組は、後々、お前に任せる」と言われ、プレッシャーを感じたり。

ディレクターからは、「女がこの仕事を担当するのは、初めてなんだけど」と困惑され、「女だからダメだ、と思ったら、言ってください!」とタンカをきったり。

深夜も、休日も、必死に働きました。

 

ところが、就職して2年目。

部署が異動になったのをきっかけに、メンタルがやられました。

「お前に任せる」と言われた仕事をいきなり外され、次々と部署を異動させられたのです。

「私は会社の駒に過ぎないんだ」と痛感しました。

 

人と話すのが怖くなり、周りのものが別次元にあるような現実感のなさ。

机を壁に向けて他の人が見えないようにしないと、仕事ができないほど、調子が悪くなりました。

今から思えば、解離性の症状が出ていたのだと思います。

 

心の中が、ものすごく苦しい。

 

わらにもすがる思いで受診した心療内科のクリニックでは、「通院するほど重症ではない」と言われて、おしまい

クリニックの医師が私の話を丁寧に聞いてくれたのが、すごく嬉しかったので、もう一度通院したら、私の話をまったく覚えていない。

薬も出してもらえず、懇願したら「それじゃあ」と出してもらえる程度。

「ここでは治してもらえない」と感じます。

 

それに、テレビ業界は「夢を売る仕事」だと思っていたのに、仕事で出会う人たちが、心に闇を抱えていました。

男性が多い職場だったせいか、暇な時間に出てくる話題は、「上司の悪口。仕事のグチ。下ネタ」。

朝からお酒を飲まずにはいられない、アルコール依存症のプロデューサー。

いきなり蒸発してしまうAD(アシスタント・ディレクター)。

昇進をきっかけに、うつ病を発症する人。

「どうして人は心を病むのだろう」、「私が心を病んだのはなぜだろう」と、考えるようになりました。

 

大学に入り直して心理学を学んだら、自分の苦しさを解くカギが見つかるかもしれない!

 

そう思って、2年半勤めた会社を退職し、猛勉強。

その年の秋に、心理学科のある大学の編入学試験を受けまくりました。

 

二度目の大学生のとき

ラッキーなことに、心理学科のある大学に合格!

学士入学することができました(3年次から編入する形に)。

会社員時代に貯めたお金を学費につぎこみ、学生に戻ってからは、家庭教師のアルバイトにも励みました。

 

しかし、精神状態は、あまり良くありませんでした。

 

落ち込むことがあると、しばらくの間、部屋のすみでじっと固まっている。

寝ているときに、マンションのベランダから飛び降りたいという衝動に駆られ、必死に自分の身体を押さえつける。

 

対人恐怖が強くなり、人と関わるのが怖くてたまらない。

適当な理由をつけて、集まりや飲み会などは避けまくる。

おどおど、びくびくしていたので、卒業論文の指導教官から、「君は新興宗教にはまるタイプだ」と言われてしまう。

学士入学した同期の学生からは、「頑張るのはいいけれど、あなたを見ていると痛々しい」と、心配される。

 

能力がもともとあまり高くないからか、精神状態が悪くて集中できないからか、心理学の知識が頭に入ってきません。

社会人入試で入学してきた、同年代の学生から、バカ扱いされるほど。

「もっと学ばなければ」と思い、大学院(修士課程)へ進みます。

 

大学院生(修士課程)のとき

大学院の修士課程は、学士入学した大学とは別のところ。

1学年10名もいなくて、こじんまりとしていました。

 

同期の学生たちは、私より年下の人が多かったのですが、みんな優しくて。

対人恐怖が強く、とっつきにくい私に、気さくに声をかけてくれました。

 

それに、がむしゃらな私の姿勢を、ポジティブに受けとめてくれるんです。

「ナオミさんは、血だらけになっても、山のてっぺんに登る人だよね~」って。

院生室にいると、くつろげました。

 

安心感が得られるからか、年月が知識を消化してくれたからか。

修士課程で学ぶうちに、学んできた心理学の知識がパーッとつながっていきます。

「ああ、こういうことだったのか」と、ようやく腑に落ちて、嬉しくなりました。

 

とはいえ、心理学の知識をたくさん学んだにも関わらず、私の心は、なかなか軽くなりません。

身体が丈夫であることと、空元気だけで、日々を乗り切るような感じ。

 

それでも、「大学院を修了したら、私と同じようなツライ思いを抱える人を、一人でも減らしたい」と思い、心理カウンセラーとして働くことを夢見ていました。

でもね~、大学院の教職員からは、「あなたのような病んだ人が、心理カウンセラーになるのは、厳しいでしょう」と言われていたんですよ。

そんなこと、私自身が、一番分かっています。

 

不安な思いを抱えつつも、同期の学生たちに励まされ、就活を続けていくと。

心理カウンセラーとして採用してくれる職場と巡り合えました!

 

心理カウンセラーとして働き始めたとき

最初の職場(教育相談センター)

大学院を修了後、ある教育相談センターに就職した私。

小学生~高校生やその保護者を対象に、心理カウンセリングを行うことになりました。

 

ところが、就職して、早々。

「大学を卒業して、経験もない人が務めるなんてこと、これまでになかったのよ」と厳しい言葉を浴びせかけられ、無視されました。

ストレスから、通勤電車の中でアレルギーのような発疹が全身に現れ、うずくまってしまうことが、度々。

 

それでも、私は、めげませんでした。

目の前のクライエント(相談を受ける人)が、少しでも心が軽くなって、笑顔になってほしい。

そんな願いを胸に、相手に真剣に向き合い、精一杯寄り添い、心理カウンセリングを行いました。

経験やスキルに乏しい私は、文字通り、心血注いで、カウンセリングをしていたのです。

 

知識や技術を身につけるために、できることは、何でもしました。

時間があれば、学会、研修会、ワークショップで学び、自己研鑽を重ね、知見を身につけていく。

スーパービジョン(自分が担当したカウンセリングの事例を発表し、講師などにコメントをもらう)を受けると、ボロクソにけなされることがほとんどだけれど、果敢に受け続ける。

 

仕事でも、全力を尽くしました。

問題を抱える小学生のプレイセラピー(遊びを通して行う心理セラピー)では、50分遊びきる体力をつけるため、食生活を変える。

中学生・高校生、保護者とのカウンセリングでは、試行錯誤の末、相手を尊重する姿勢を見い出す。

 

最初は、声もかけてくれなかった職場の先輩たち。

数ヶ月も経つと、「あなた、思ったより頑張る人ね」と言われ、普通に話しかけてもらえるようになりました。

そのうえ、洋服を譲っていただいたり、貴重な研修会に招いていただいたり。

「あなたの心理カウンセリングは、透明感がある」と言われたときは、嬉しかった~。

 

この職場で働き続けたいと願っていたのですが、働いて2年目。

職場改編があり、分室に異動することになりました。

しかも、一緒に働いてきた職場の先輩たちは、なんと、ほとんどが解雇。

私自身も、それまでのクライエントを引き続き担当することはできないと言われてしまいます。

 

通勤に片道2時間近くかかっていたこともあり、「ご縁が切れた」と感じた私。

働きながら、就活を行い、家から近い職場に転職しました。

 

次の職場(教育相談センター)

次の職場も、教育相談センター。

心理相談員(心理カウンセラー)の人数も多く、心理カウンセリングの依頼が、次々と舞い込む施設でした。

臨床心理士の資格をもつ人が多く働いており、働きやすい職場ではないかと思っていたのですが。

 

勤めてしばらく経つと、職場内でいじめのターゲットになりました。

仕事を頑張っていたとはいえ、対人恐怖の傾向はぬぐえず、ビクビクしていたので、「変なヤツ」と思われたのでしょう。

 

ただ、私は、意外と打たれ強いタイプなんですよね。

いじめをする人たち、職場の人間模様を、じっくりと観察。

私なりに、いじめの加害者を撃退しました。

 

とはいえ、いじめが起こるような職場は、職場自体の雰囲気がよどんでいます。

カウンセリングを希望する人が多く、待たせるのが忍びない。

心理カウンセリングの数をこなして、力をつけたい。

職場の自分の席には、あまりいたくない。

 

さまざまな思いを胸に、私は、勤務時間の間ずっと、心理カウンセリング業務に没頭していました。

空いた時間に、さっと昼食を済ませ、昼休みの時間にも、心理カウンセリングを行っていました。

 

※職場でいじめの被害に遭い、加害者を撃退したことについては、こちら。


 

その職場で働いていた際、「心理職の派遣相談」という形で、週1日、学校で勤務することになりました。

スクールカウンセラーのような仕事です。

 

スクールカウンセラーの仕事は、心理カウンセリングだけでなく、先生方へのコンサルティング、学校内の教育相談事業に関わる業務などもあり、「能力が高い人でないとやれない」と評判の仕事。

私は、自信がもてず、やりたくなかったものの、業務命令であれば、やむを得ません。

 

当時、スクールカウンセラーは、それほど普及していませんでした。

案の定、私も、学校の先生方に、思いっきり煙たがられました。

ほとんどの先生方が、私に声をかけてくれません。

対人恐怖の傾向がある私も、気さくに話しかけることなど、無理。

思いっきり、孤立しました。

 

心理カウンセリングの業務など、ほとんどなく、仕事といえば、教頭先生がオファーしてくる、行動観察のみ。

問題行動を示す児童・生徒の様子を、授業中、休み時間、給食の時間に、行動観察し、担任に、その児童・生徒の特徴や対応の仕方などについて、情報提供するという業務。

私は、全身全霊で、行動観察の業務にあたっていきました。

 

そんな地道な業務を続ける中で、私に声をかけてくれる先生方が、一人、また一人と増えていきます。

すると、気になる児童・生徒や保護者を、先生方がカウンセリングにつなげてくれる。

今まで、行動観察を拒んでいた先生が、「今度、学芸会の準備をするから見においで」と声をかけてくれる。

 

スーパービジョンでは、「先生方に、雑談でもいいから積極的に話しかけて、信頼関係を築くのが、定番のやり方。あなたのやり方は間違っている」と言われました。

でも、私なりのやり方でも、信頼関係を築けるんです。

時間はかかりますけどね。

その後、スクールカウンセラーとして働いていますが、最初に学校で働いたときの経験が活きています。

※スーパービジョンとは、担当した心理カウンセリングの事例を報告・発表し、講師などから助言や指摘をもらい、心理カウンセラーとしてスキルアップするための機会を言います

 

大学院生(博士後期課程)のとき

ちょうど、職場内でいじめのターゲットになっていたころ。

大学院の博士後期課程に入学しました。

 

大学院(修士課程)時代の恩師に、博士後期課程で学ぶよう声をかけられ、正直、嬉しくて。

それに、心理カウンセラーとして実力をつけたかった私は、博士後期課程で学ぶことにしたのです。

クライエント(相談を受ける人)に寄り添い、クライエントの力を引き出す「支持的精神療法」が研究テーマ。

 

当時、週4日勤務だったため、勤務曜日を年ごとに変更してもらい、博士後期課程の単位を取得。

仕事のない日は、勉強、研究に明け暮れ、学会発表も行いました。

 

しかし、恩師が、大学内の権力争いで退官した後。

恩師のあとを引き継いで私の担当になった教授(A教授)が、別の教授(B教授)から煙たがられていたようで。

私も、B教授から攻撃を受けます。

 

戸惑っていると、B教授の教え子だった院生から、声をかけられます。

B教授が、あなたの博士論文について、指導してもいいって言ってるよ。

 

「白い巨塔か~」と思ったら、やる気がそげてしまって。

博士後期課程の単位を全て取得した後、満期退学しました。

目的を達成するために、相手や状況を利用することができない、甘ちゃんの私です。

 

仕事と並行して自分の課題に向き合っていく

「自分の課題を解決したい!」と切望していた私。

自分の課題を解決すれば、心理カウンセリングの仕事にも活かせると信じていました。

 

そこで、最初の職場に就職したことを機に、満を持して、「教育分析(精神分析療法)」を受けることにしたのです。

「教育分析」とは、心理カウンセラーを目指す人が、自身の心の問題を解決し、心理カウンセラーとして、とどこおりなく働けるように、自ら心理カウンセリングを受けることを言います。

 

週1回、せっせと通い、先生の言うことに従って、話をしていたのに。

期待して臨んだ教育分析は、「あなたは病理が深い」という理由で、2年で打ち切られてしまいました。

 

※「教育分析(精神分析療法)」を2年で打ち切られたことについては、こちら。

 

だれかに頼らずに、自分で自分を変えよう!

 

あきらめずに、集中内観に通いつめました(5年間で10回)。

母への怒りは、わりと早めに解消したのですが……。

「他の人が私を許しても、ダメ人間である私を、私が許さない!!」という考えがぬぐえません。

 

※集中内観、日常内観、一日内観に取り組み、試行錯誤をくり返したことについては、こちら。

 

自分でも、本当に執念深いと思うのですけど。

「何としても、自分の課題を解決したい!」という思いが、おさまりません。

 

さまざまな心理療法の研修会、ワークショップなどにも、精力的に参加しました。

フォーカシング、アサーショントレーニング、アンガーマネジメント、サイコドラマ、認知行動療法、来談者中心療法、家族療法、etc。

 

少しずつ、心は軽くなってはいきました。

ですが、自分を責めるような思い、自分を認められない感じは続きます。

 

結婚を機に苦しい試練が続いていく

悪戦苦闘や試行錯誤を重ねても、なかなかスッキリした心境には、いたらなかったものの。

「子どもを産み育てる経験をしてみたい」と、思うようになりました。

 

20代のときには、「34歳より先の人生が見えないから死んでもいい」、「自分の遺伝子は絶対に残したくない」とまで思っていた私なのに。

なかなかに涙ぐましい婚活の末、30代半ばで結婚相手と巡り合います。

ところが、結婚を決めたことを機に、苦しい試練が続くこととなりました。

 

母と義母の悪意なき攻撃

結婚相手が見つかったところで、私の母が、結婚に猛反対!

ちょっと前までは、「ナオミみたいな行き遅れと結婚してくれる人なら、どんな人でも大歓迎」なんて、言っていたのに。

 

私の母は、私に対して嫌がらせのようなことをくり返し、結婚に反対します。

彼氏(現夫)の戸籍を取り寄せ、いちゃもんをつける。

「ナオミにかけたお金を全額返せ!」と、明細をつづった数枚にわたるFAXを送りつけてくる。

母にお金を返すため、預金通帳を持って母に会いに行くと、わざと出かけてしまい、会おうとしない。

 

父が、母宛に感謝の手紙を書くよう助言してくれ、私と彼とで手紙を書いたら、ようやく機嫌を直してくれました。

すると、今度は、母が、結婚式の招待状や、引き出物が気に入らないと、いちゃもんをつけてくるんです。

 

連日、母から、嵐のような電話攻撃。

母の気に入らないことは謝罪し、母の思う通りにすることで、嵐は去りました。

 

結婚式当日も、大変でした!

 

私の母は、やや非常識な振る舞いをしていましたが、まだ、かわいいもの。

ダークホースのような義母は、何の連絡もなく、結婚式の開始より2時間遅刻し、悪びれる様子もない。

私があちこちで頭を下げ、話をつけ、結婚式を執り行うことができました。

 

結婚式を終えた私は、疲れから、ゲッソリ。

しかも、夫が、ストレスのせいか、帰路で吐きまくり、私に抱えられるようにして帰宅。

「結婚式が楽しかった。幸せを感じた」と思える人が、うらやましくて仕方ありません。

 

結婚して、1年後に妊娠、出産。

私の誕生日(38歳)の3日前に、息子が生まれました。

 

喜びもつかの間、産後も、かなりひどい目に遭います。

 

義母が上京、滞在し、家事などをしてくれることになっていたのですが、とんでもない!

ほとんどの家事を私にやらせ、自分はお散歩や食べ歩きを楽しみ、帰ってくると、私に嫌味を言う。

夫に泣いてお願いして、数日後にようやく、義母に帰ってもらうことができました。

 

その頃、母が電話をしてきたのですが、私は電話に出る気力もなく。

実は、母の提案で、義母に産後の面倒を見てもらうことになっており、私は初めから不承不承だったのです。

夫に、義母には帰ってもらったことを説明してもらうと、母が急に上京し、私の世話をしてくれることになりました。

 

仕事一途で、ほとんど休みをとらない母が、私のために1週間も仕事を休み、世話をしてくれる。

私は、嬉しくて嬉しくて、幸せな1週間を過ごしました。

 

ところが、母が福島へ戻ると、連日の電話攻撃が始まります。

私の夫に対する悪口、罵詈雑言。

夫がマンションの購入を検討しているけれど、それを阻止するようにという指示。

 

私は、マンションを買うことが怖くなり、購入をやめるよう泣いて頼みましたが、夫は決して受け入れません。

その旨を母に伝えると。

 

ナオミみたいに、言うことを聞けない人間は、落ちるところまで落ちて、地獄を見るがいい!

 

その後、電話攻撃はなくなりましたが、時折、私を罵倒するような内容のFAXが送られてきました。

私は、産後のストレスが激しすぎて、激やせし、妊娠前より体重が4kg落ちたほど。

落ちた体重が戻るのに、3~4年を要しました。

 

夫の悪意なき攻撃

母、義母の悪意なき攻撃で、ボロボロだったのに、夫まで私を攻撃してきます。

夫が、我流をつらぬき、私の意見に全く耳を貸さないのです。

 

私の預貯金を頭金にして、ローンを組み、自宅マンション、自家用車を買ったことを手始めに、ほしいものを次々と手に入れていく。

しかも、結婚から数年後、夫が仕事をクビになり、無職に成り果てる。

就活をして採用通知を手にしたのに、夫は「前職より給料が安いからイヤだ」と採用を蹴り、その後は不採用の嵐。

そのうえ、変なプライドに凝り固まり、失業手当を受けない、息子の就学援助も拒否。

 

無職の2年間を経て、ようやく正社員として採用されたのに、夫は自己流をつらぬき、残業を拒否して、契約社員に格下げ、給与は半減。

私は、家計を支えるために必死に働き、家事、育児も一人でこなしました。

「私がダメな人間だから、こんな目にあっているんだ」と、お風呂や寝室で、ひとり涙する日々。

 

家庭では、夫とのケンカが絶えず、息子にも影響が及びます。

息子も、不安だったのでしょうね。

小さいときから、私が一緒に寝ていないと、すぐに起きてしまいました。

保育園年長のときは、家のトイレに入ることを怖がり、私が付き添わねばなりません。

小学校に入学して数日後、学校へ行くことを怖がり、小学1年生の4月~10月まで毎朝、学校へ送りました。

 

私が精神的に不安定であるために、息子に影響を与えている。

息子には、私のせいで、悪い影響を与えたくない。

 

そう思い、自分の心を整えるため、集中内観に行き、日常内観、一日内観にも励みました。

 

職場が針のむしろとなる

出産後は家庭に入り、子育てに専念したいと思っていたのですが。

夫が購入したマンションや自家用車のローンを返済するため、私が働かざるを得ませんでした。

 

心理職としては求人の多い、スクールカウンセラーとして働くことにしました。

夏休み、冬休み、春休みがあり、その期間は、息子と過ごせることも魅力でした。

生後5ヶ月の息子を保育園に預け、お金のために必死に働く日々。

 

ところが、ある勤務校では、必死に頑張っているにも関わらず、失言や判断ミスが続きます。

私のことを決して許さず、糾弾してくる先生方、私をうとんじ、苦々しい感じで関わってくる先生方。

とうとう同僚の心理カウンセラーから、「あなたは、スクールカウンセラーには向かない。別の仕事を探したほうがいい」と、言われる始末。

 

それでも、夫が無職である状況で、仕事を辞める訳にはいきません。

夜は眠れず、下痢が続き、食欲もない。

体調が悪くても、歯を食いしばり、目の前の仕事に精一杯関わる。

 

頭が悪いからかもしれないと、ビジネス系の研修を受けてみる。

自分を見つめ直すために、集中内観を受ける。

 

すると、頭が悪いというよりも、私自身に、診断がつかないまでも、「発達凸凹(発達障害の特性)」があることに気づきました。

 

※職場の同僚から、仕事を辞めるよう言われたことについては、こちら。

 

「ハコミセラピー」と出合う

母との関係、義母との関係、夫との関係で、苦しむだけでなく、仕事でもツライ思いばかり。

私が精神的に不安定であるために、息子にまで悪い影響が及んでいる。

 

一度きりの人生、このままで、終わりたくない。

心が軽やかな日々というものを、体験してみたい!

 

どうしても、あきらめがつかず、ビジネス系の研修会、心理療法のワークショップに参加し、試行錯誤、悪戦苦闘を続けていきました。

文字通り、暗中模索の日々の中。

 

「ハコミセラピー」との出合いで、私の人生は変わりました!

 

「ハコミセラピー」とは、今ここで起きていることに意識を向ける「マインドフルネス」を使って、身体や無意識に働きかけるセラピーです。

2015年の夏に、なんと、ビジネス系の研修会で知りました。

私の執念が「ハコミセラピー」を引き寄せたと信じています。

 

「ハコミセラピー」の肝は、ノンバイオレンス。

「ハコミセラピー」に関わる人たちがみな、私を温かく受け入れてくれることが、私の凝り固まった考えや心の在り様をやわらげていきます。

これまで、どうにもこうにも手が届かなかった心の痛みに、そっと優しく手を触れてもらったような気がしました。

 

「ハコミセラピー」の学びに、取り組めば、取り組むほど、自分に対する理解が進んでいく。

苦しい思いをするメカニズムが、私の中で解明されていき、自分で自分を受け入れる素地が作られていく。

 

徐々に気持ちが楽になっていきました。

ひとりで泣くことが減っていく。

仕事でも、長年、指導を受けている師匠から、「まともになってきたね」と、うれしいお言葉。

人が怖くて避けていたPTAの活動にも、参加できるようになる。

 

これで、私は苦しみから解放される。

 

そう思ったのも、つかの間、新たな試練がやってきます。

 

※「ハコミセラピー」については、こちら。

※「ハコミセラピー」で、自己探究を進めていったことについては、こちら。

 

両親の死を経て自分を生きていく

徐々に気持ちが楽になってきたところで、母の死、父の死が、相次いで訪れます。

またしても、新たな試練に向き合うこととなりました。

 

母の死は私を地獄の底へ突き落した

2019年の夏、母が病気のために、急逝しました。

「ナオミは、バカで、のろまで、肝心なときに役に立たない」という言葉を残して。

1歳下の弟のことは、ほめちぎり。

9歳下の妹については、将来のことを心配していたのに。

 

わ・た・し・だ・け・ダ・メ・人・間・か。

 

「母に認めてほしい」

そう願い続けてきた私は、地獄の底へ突き落されました。

母から認められることは、もう二度となく、ダメ人間の烙印を押されてしまったからです。

 

泣き暮らしたいけれど、仕事もあるし、家庭もある。

何より、母の死後の手続きのために、やらなければいけないことが、山積み。

休みの日は、福島と東京を行ったり、来たり。

自分の気持ちを鼓舞しても、気力が尽き、どーんと落ち込むことをくり返す。

まさに、血ヘドをはくような日々が続きました。

 

ツライからこそ、何とかこの状況を脱したいと思い、自分の内面を探究し、整理する努力を続けました。

心の平穏を取り戻すために、効果がありそうなことは、片っ端から試しまくる。

日々、小さな実践を積み重ねる。

 

※母の最期の言葉で傷つきながらも、前を向こうと奮起したことについては、こちら。

 

次第に、母への思いが整理されていきます。

 

母自身も、親との関係でツライ思いを重ねてきた訳だから、まあ、仕方ないなあ。

母も、「発達凸凹(診断はつかないまでも、発達障害の特性をもっていること)」があって、生きづらかったんだろうなあ。

私が、兄弟の中で心身ともに一番丈夫だったから、母の心のサンドバッグ&ごみ箱に選ばれたのかなあ。

父が、生まれたばかりの私を溺愛していたから、私にヤキモチを焼いたのかなあ。

母なりの形ではあるけれど、私にも愛情を注いでくれていたなあ。

私は、母のことが大好きだったんだなあ。

 

※母の愛に気づいたことについては、こちら。

 

母の死から1年半が経ったころから、母の最期の言葉が、あまりに気にならなくなってきました。

仕事やプライベートでも、腹が立つとき、悲しいときもありますが、しばらく経つと、スーッとなくなっていく。

嫌な気持ちを引きずる時間が短くなっていく。

 

母の呪縛から解き放たれたような、やや抽象的な体験をしたころから。

私の中で、母の存在は小さくなっていきました。

 

※母の呪縛から解き放たれたような体験をしたことについては、こちら。

 

父の死を経て、両親の幸せを願う

母の死から3年後、2022年の夏に、父も病気で亡くなりました。

新型コロナウイルスの感染が拡大し、実家(福島)に帰ることができず、会えない期間が2年にもなるうちに、亡くなってしまった父。

私は、父の死に目にあえませんでした。

 

ただ、不思議なことに、父が亡くなる数か月前、「ハコミセラピー」のワークショップの中で、父の愛を実感する体験をしていました。

それまで、私は、「父が人格者であるから、私のようなダメ人間でも可愛がってくれた」としか思っていなかったのに。

父が、私というありのままの人間を、そのままに受け入れ、愛情を注いでくれていたことに気づいたのです。

 

※父の愛を実感したことについては、こちら。

 

それでも、ふとした折に、母も父も、この世にいないことが、悲しくて仕方がない私。

そんなやりきれない思いを「ハコミセラピー」で取り上げてみたところ。

父と母が、天国で仲むつまじく、笑顔で、幸せに暮らすイメージが浮かびました。

 

私は、心の底から安心し、両親の死を受け入れられるようになったのです。

 

※両親が天国で幸せに暮らすイメージを得たことについては、こちら。

 

心軽やかな日々が増えていく

自分自身の課題に取り組み、自分の心の内面を探究する中で。

「ハコミセラピー」「ストレングス・ファインダー」が、私の推進力となりました。

そして、心軽やかな日々が増えていったのです。

 

ハコミセラピーの効能

「ハコミセラピー」は、マインドフルネスを使って、無意識や身体に働きかけるセラピーです。

今ここに意識を向ける「マインドフルネス」の状態になると、あれこれ考える意識(顕在意識)が低下していき、無意識にひそんでいるものが表に現れてきます。

 

無意識の中には、驚くほど腑に落ちる答えがひそんでいる。

そうした答えを、ひとつひとつ見出しながら、自分の心をひもといていく。

 

私の場合、自責の念(自分を責める内なる声)が、苦しみの原因であることが分かりました。

自責の念への対処法を試し、心のセルフケアを試行錯誤していくと。

次第に、セルフケアのツボが分かってきて、頑張っている自分を励ましたり、落ち込んだ自分を慰めたりできるようになるっていきます。

 

自分を知れば知るほど、生きることが楽になり、心軽やかな時間が増えていきました。

 

※「ハコミセラピー」を通して、私の心の在り様が見えてきたことについては、こちら。

 

※自責の念の正体や対処法については、こちら。


 

ストレングス・ファインダーの効能

「ストレングス・ファインダー」は、自分の才能を知るテストです。

自分の才能、つまり、自分が発揮しやすい力を、客観的に知ることができます。

 

「ストレングス・ファインダー」のテスト結果も、自己理解を深めるのに、役立ちました。

自分の強みをどう活かしていけば良いかが分かってくると、自分の欠点にばかり向かっていた視点が、長所にも向かいます。

 

面白いことに、「ハコミセラピー」を通して気づいた自分の在り様が、「ストレングス・ファインダー」の結果とも、リンクしていました。

それに気づくと、私自身が、自分がもつ力を精一杯に発揮して、悪戦苦闘しながら、一生懸命生きていることを、しみじみ感じます。

すると、自分のけなげさを感じるというか、自分を受け入れる気持ちに、自然となってくるのです。

 

※「ストレングス・ファインダー」のコーチングを通して、自己理解が進んだことについては、こちら。

 

※「ハコミセラピー」を通して気づいた自分の在り様が、「ストレングス・ファインダー」の結果ともリンクしていたことについては、こちら。

 

家族関係が穏やかになっていく

「ハコミセラピー」「ストレングス・ファインダー」で、家族との関係も変わっていきます。

 

「ハコミセラピー」で自己理解を深めるほどに、私自身に起きていることや、自分の感情を把握しやすくなるし、セルフケアのやり方も分かってくる。

すると、夫や息子に起きていることが、以前より冷静に受けとめられるようになる。

そこに、夫や息子の「ストレングス・ファインダー」の結果が加わると、相手への理解が深まり、対処法も見出しやすくなる。

困り事が改善する。

良い循環が生まれています。

 

離婚に応じてくれず、「早く死んでくれ!」と願っていた夫とも、関係が劇的に改善!

 

夫に関しては、「ストレングス・ファインダー」のテストが、ターニングポイントとなりました。

私が何を言っても耳を貸さなかった夫が、自分のテスト結果を見て、「オレは頑迷なんだな」と、ひと言。

夫が自分の特徴を理解したのは、予想外。

それ以降、テスト結果をもとに、私が話をすると、夫が聞いてくれるようになったです。

 

相変わらず、私の気持ちを汲み取ることは苦手な夫です。

発達障害の診断はつかないまでも、発達障害の特性(発達凸凹)を持っているのでね。

 

それでも、私の心が軽やかになるにつれ、夫に対する対処法を見い出し、実践できるようになっていきました。

私がお願いすると、私が嫌がることをやめてくれる。

頼まなくても、家事を手伝ってくれることもある。

私が何度も何度も伝えると、分かってくれる。

そのため、夫に対してイライラすることが減り、夫婦ゲンカも激減しています。

 

※「ストレングス・ファインダー」の結果を通して、夫婦関係が改善されたことについては、こちら。

※発達凸凹を持つ夫と暮らして思ったこと、考えたことを、まとめてみました。

 

幼い頃は、新しい環境に慣れづらく、不安が強かった息子。

私の気持ちが落ち着いていったからか、息子自身が成長していったからか。

小学校では、のびのびと生活するようになり、友だちも増えていきました。

ちょっと、「オレさま」な感じに育っていったほど。

 

ところが、中学生になったころから、思春期ならではの反抗期に入り、とっても感じの悪いヤツに。

話しかけても返事をしない。

私の食事を嫌がって食べない。

欲しいものと次々と要求する。

思い通りにならないと、これ見よがしに、大きなため息をつく。

 

心の中で、息子の存在に依存していた私は、ショックで打ちひしがれてしまいまして。

苦肉の策という感じで、イメージの中で、「かわいい息子」のお弔いを行うと。

息子と心の距離を取って接せられるようになり、息子とは無難に過ごせるようになりました。

 

また、中学時代は、勉強よりゲームに夢中で、「俺はプロゲーマーになる。高校は通信制でいい」と言っていた息子。

私と夫との関係が改善して、少し経ったころ。

ゲーミングPCを片づけ始め、全日制の高校を目指して、勉強に力を入れ始めました。

これはもう、奇跡としか言いようがない!

 

その後、息子は志望校(大学付属の私立高校)に合格し、楽しい高校生活を送っています。

部活は運動部に所属。

昭和のスポ根が現存している、かなりブラックな部活なのですが、たくましく参加しており、感心するほどです。

 

※思春期の息子と距離が取れるようになるまでの悪戦苦闘については、こちら。

私の思い

まだまだ、試行錯誤の道半ばですが、気づいたことがあります。

 

ず~っと自分ではない人間になりたかったけれど、私は私としてしか、生きられない。

ちょっと残念な自分ではあるけれど、それでも、自分を生きていくしかない。

人からの評価は、実は関係ない。

自分が自分にOKを出すかどうか、それだけが問題なんだ。

 

今でも、心の奥には、母との関係でできた傷が残っている感じがしています。

ふとした折に、傷が痛みだし、悲しい思いがわいてきます。

おそらく、心の傷がすべてふさがり、きれいになることはないでしょう。

 

そんな私ですが、「自分を生きていく」という覚悟が定まってから、生きることが楽になりました。

夫や息子との関係も改善し、仕事もやりやすくなりました。

三歩進んで二歩下がるという感じではありますが、着実に前へ進んでいる気がしています。

 

とはいえ、私の精神修行、自己探究の日々は、まだまだ続いています。

終わりはありません。

終わったと思ったら、私の内面はよどみ、腐り果て、本当の意味でダメ人間になると考えています。

 

 

生年月日・出身など

1968年11月6日

山口県生まれ(0歳~3歳)
福島県育ち(3歳~18歳)
東京都在住(18歳~現在)

 

現職

私立中高一貫校スクールカウンセラー(18年目)

 

過去の職歴

<1991年~1993年>
某CATV局:番組制作、広報など
「夢を売る仕事」と思っていたのに、意外と病んでいる人が多い業界…。
アルコール依存症のプロデューサー、いきなり蒸発したAD(アシスタント・ディレクター)との出会いは、強烈でした。
マスコミ業界で、いろいろな人と出会ったことも、心理学を学びたいと思うきっかけとなりました。

<1998年~>
公立教育相談センター相談員(計8年間、2施設)
公立小学校スクールカウンセラー(計10年間、4校)
公立中学校スクールカウンセラー(計5年間、2校)
私立中学・高等学校スクールカウンセラー(5年間、1校)
大学(心理学部)講師(1年間、1校)
大学院付属臨床相談センター相談員(2年間、1施設)
療育機関相談員:SST、ペアレント・トレーニングも(4年間、1施設)
公立幼稚園行動観察(1年間)
知能検査テスター(WISC-Ⅳ)(6年間)

心理カウンセリング業務について

これまで、主に教育機関で、子どもたち(小学生~高校生)や保護者の心理カウンセリング、教員へのコンサルテーションをおこなってきました。

相談内容は、わりと幅広いです。

悩みが深い方は、発達凸凹(発達障害の診断はつかないまでも、生まれつき得意なことと苦手なことの差が大きい状態)がベースにあり、取り巻く環境との不一致があるために、苦しんでいるのではないかと感じています。

  • 不登校・登校渋り
  • 学校への不適応(授業妨害、離席、学校になじめないなど)
  • 学習の難しさ(勉強が苦手、成績が上がらない、勉強にやる気が起きないなど)
  • 対人関係の問題(友人、対教員、恋人、職場の同僚、近所づきあいなど)
  • 体調不良(頭痛、腹痛、吐き気、食欲不振、不眠、だるさ、過敏性腸症候群など)
  • 自傷行為(リストカットなど)
  • いじめ
  • 情緒不安定
  • 家庭内の問題(親子、兄弟、夫婦、嫁姑など:虐待、DV、ハラスメントも含む)
  • うつ病になった教職員の復職サポート

ひとりひとりのクライエント(相談者)の良いところを活かして、問題を解決するよう働きかけています。

 

資格など

○臨床心理士(2000年資格交付)
日本臨床心理士資格認定協会によって認定される民間の資格。
臨床心理学の専門家に与えられる資格です。
5年ごとに更新があり、更新までに必要な研修などを受ける必要があります。
臨床心理学の業界では、今のところ、歴史もあり、最も信頼の置ける資格と言われています。


○特別支援教育士(2011年資格交付)
特別支援教育士資格認定協会によって認定される民間の資格。
発達障害のアセスメントと指導をおこなう専門家に与えられる資格です。
5年ごとに更新があり、更新までに必要な研修などを受ける必要があります。


○公認心理師(2019年資格交付)
心理学に関する専門的な知識と技術をもっている専門家に与えられる国家資格。
2019年から交付され始めた、できたばかりの資格です。
更新制ではありません。

○ギャラップ認定ストレングスコーチ(2020年認定)
強みにもとづくコーチングを提供するのに十分な能力を取得した人に与えられる認定資格。
ギャラップ社が提供する4.5日間にわたる研修、理解度をはかるテスト、6人以上のコーチング評価を経て、認定されます。

2年ごとに更新があり、その都度、理解度をはかるテストを受けます。

 

所属する学会など

日本心理臨床学会
日本遊戯療法学会
日本LD学会
日本臨床心理士会
東京公認心理師協会

 

学歴

○1991年 明治大学(日本文学専攻)卒業
親元を離れ、大学生活をエンジョイ!
演劇サークル、マスコミ研究室にも所属していました。
古事記の物語をもとに、女性の霊力について、卒業論文を書きました。

○1996年 日本女子大学(心理学科)卒業
心理学に興味をもち、3年生に学士入学(四年制大学を卒業した人が、入学試験を受けることができる制度)。
基礎心理学から応用心理学まで、みっちり学びました。
「夜と霧」に感銘を受け、生きる意味と精神的健康との関連について、卒業論文を書きました。

○1998年 文教大学大学院修士課程(臨床心理学専攻)修了
家族心理学分野で日本の先駆者だった岡堂哲雄先生(故人)に学びを得たくて、入学。
夫婦関係(両親の関係)が子どもに与える影響について、修士論文を書きました。

○2005年 文教大学大学院博士後期課程(臨床心理学専攻)満期退学
岡堂哲雄先生(故人のお誘いを受け、仕事を続けながらの学生生活。
支持的精神療法(相談者に寄り添い支える心理療法)について研究しました。

 

自己探求に役立った心理療法など

教育分析(精神分析):約2年間(ほぼ週1回)
集中内観:約12年間にわたり12回(1回あたり6泊7日)
一日内観:約9年間(ほぼ月1回)
日常内観:約9年間(ほぼ毎日)
ハコミセラピー(JHEN):2015年夏~現在まで
ストレングス・ファインダー(クリフトン・ストレングス):2020年秋~現在まで

 

趣味

○自己探究(ダントツ一番の趣味!)
大学や大学院の学費を除いても、「自己研鑽」という名目で、かなりのお金を費やしている……。
自分の苦しみがどこから、どのようにして生まれるのか、心穏やかな日々を送るためにどうすればいいのか。
その答えを得たいという思いで参加した研修会、セミナー、ワークショップの数々。
ここまでくると「道楽」ですわ~。

○読書(マンガから専門書まで)
通勤電車の中が、読書タイム。
速読法を学んだはずなのに、読むのが遅い……。
ちょっと前に、いたく感動したのは、「ホモサピエンス全史」上下巻。
小説では、「みをつくし料理帖」全10巻+特別巻。
古いところでは、「利己的な遺伝子」。
「バムとケロ」の絵本シリーズも大好き。
マンガでは、「那由他」「ダークグリーン」「ミステリと言う勿れ」。
マインドマップに関するものなら、「マインドマップ FOR KIDS
-勉強が楽しくなるノート術-」
発達障害に関するものでは、「発達障害-生きづらさを抱える少数派の「種族」たち-」が秀逸。
トラウマ治療、特にフラッシュバックの治療に関しては、「発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療」「テキストブック TSプロトコール-子ども虐待と複雑性PTSDへの簡易処理技法-」を読んで、目からウロコが落ちた。

○ドラマ、アニメを見る
家事をしながら見ています。
感動して一人で泣くのが好き。
大笑いするのも好き。
面白かったドラマ:「ギフト」「天皇の料理番」「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」「連続テレビ小説ひよっこ」「MIU404」「dele(ディーリー)」「ミステリと言う勿れ」「不適切にもほどがある!」
面白かったアニメ:「機動戦士ガンダム」「鋼の錬金術師」「夏目友人帳」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「進撃の巨人」「ゴールデンカムイ」「マッシュル」「葬送のフリーレン」

○研修会やセミナーの音声を聞く
外を歩いているときに聞いています。
Webで研修会やセミナーを受けると、その後の動画視聴が可能になるものが多く、その音声を聞いています。
時間術、起業、アイディア創出、ライティング、知能検査、ストレングス・ファインダー、心理療法、などなど。

○自然の中を歩く
大自然の中、道なき道を行くのが好きです。
結婚する前までは、遭難しかけると、ワクワクしました。

でも、都心だと、なかなか遭難しそうな感じを味わえないのが、残念。
近所の親水道路や公園を歩いて、ちょっとした自然を楽しんでいます。

○節約
ただのケチです。
割引クーポン、ポイント、大好き!
最近は、JREポイント、楽天ポイント、Vポイントを使って買いものをするのが、ひそかな楽しみです。

 

好きな言葉

転んでもただでは起きない
人事を尽くして天命を待つ
為せば成る
人間万事塞翁が馬
なるようになる
人生プラスマイナスゼロ

 

ストレングス・ファインダーのトップ5

1.学習欲
2.内省
3.成長促進
4.共感性
5.収集心

 

家族

○夫(1歳年上:専門職)
2005年に結婚した夫。
なかなかに個性的な人。
物をよく失くす、興味のないことを忘れる、一方的によくしゃべる、相手の話を聞かない、相手の気持ちが分からない、こだわりを譲れない、頭が固い、上から目線の言動が目立つ、愚痴が多い、口うるさい、おせっかい。
嫌なことを翌日に持ち越さない、ポジティブシンキング、生真面目、基本的に優しい。
スポーツ観戦、映画鑑賞、ジョギング、
家電が趣味。
毎朝、英字新聞を読み、英語力をつけている。
2023年は東京マラソン、2024年は京都マラソンに出場し、完走。

○息子(高3)
2006年に生まれた息子。
こちらも、なかなかに個性的。
物をよく失くす、忘れ物が多い、探し物が苦手、片づけも苦手、かなりの偏食、痛みに弱い、新しい状況が苦手、コツコツやることが苦手、俺サマな言動が目立つ。
嫌なことを引きずらない、人の話に耳を傾ける、やるべきことはやる(基本的に滑り込みセーフのタイプ)、興味のあることはトコトン極める。
高1のときは、ビックリするほど勉強しなかったので、ギリギリの成績。
高2では、ヤバイと思ったのか、少し勉強するようになる

高校で所属しているサッカー部が、かなりのブラック部活なのだが、頑張っている。
スマホで興味のある動画を見ているうちに、英語のリスニング力がついたという、なかなかにスゴイやつ。

二人とも、素直な性格で、裏表がありません。
ケンカをしても、すぐに仲直りできる、気の良いやつらです。

 

日課にしていること

○睡眠の質を高める
睡眠をしっかり取ると心が整うので、7時間以上の睡眠時間を確保し、寝る時間帯にもこだわっていました(22:00~2:00の時間帯は必ず寝る)。
でも、2021年2月から、スマートウォッチで睡眠の測定を始めたら……。
ガッカリするほど睡眠の質が低いことが判明!!
それに、最近、年齢のせいか、ぐっすりと眠ることが減っている。
「深い睡眠」の時間を増やすため、睡眠に関する本を何冊も読み、さまざまな試みを重ねています。

○ちょこっと運動
家事と仕事に追われ、しっかりと運動をするための時間が取れないので、ちょっとしたときに運動をしています。
息子を保育園に預けていた6年間は、自転車で片道30分~1時間かけて通勤していました(子ども乗せをつけたロードバイク)。
都心は、電車を使うより、自転車のほうが速く移動できるのです。
以来、心電図をとると「徐脈(脈が遅い)」という結果。
医者からは、「アスリート心臓ですね。何かスポーツをされてますか?」と聞かれます。

今、実践しているちょこっと運動。

  • 通勤する際は、最寄り駅まで片道15分歩く。往復30分。
  • 朝は、最寄り駅までダッシュすることも、ちょいちょい。
  • 駅などでも、エレベーター、エスカレーターは使わず、階段を使う。
  • 建物の中も、基本的には階段で移動する。
  • 階段は、駆けのぼる、駆けおりる。
  • マンションの9階に住んでいるので、階段の昇り降りは、いいトレーニングになる。
  • 片道30分程度(7㎞ぐらい)なら自転車で移動する(今はママチャリだけどね)。

○マインドフルネス(瞑想)
家事をしながら、歩きながらなど、毎日、マインドフルネスをする時間をもっています
「なんちゃってマインドフルネス」と勝手に名づけた、いい加減なマインドフルネスです。

そして、数年前から、週に1回(40分~60分)、「ハコミセラピー」の仲間と一緒に、オンライン・マインドフルネスをしています。
だれかと一緒にマインドフルネスをやると、深まり度がハンパない!
ストレス解消、自分への気づきが深まる、新しい解決策が見つかるなど、貴重な時間になっています。
イライラが強まり、どうしようもない時は、お風呂に入りながら、「慈悲の瞑想」を唱えます。
以前は、毎晩、お風呂で、「慈悲の瞑想」を唱えていました。

「慈悲の瞑想」をすると、頭の中から嫌なことが抜けていき、心がスーッと静まります。

○筋トレとストレッチ
数年前から、膝や腰などに痛みを感じるようになりました。
整骨院での施術を続けても、いっこうに良くならず、紆余曲折を経て、高齢化にともなう筋力低下が原因だと判明。
脊柱側弯症があるため、筋力の低下がモロに影響するようです。
2023年の5月から、筋トレとストレッチを始めました。
毎晩、20~40分ほど行っており、痛みが改善しています。

※整骨院での施術に効果が見られなかったことについては、こちら。


○トラウマ治療(TSプロトコール)の「手動処理」
自責の念に長年苦しんでいたのですが、フラッシュバックだったことが判明。

「手動処理」を試したら、自責の念(認知・思考的フラッシュバック)が消えました。
毎晩、「手動処理」をしています。
頭の中がスッキリし、気持ちも整います。

※トラウマ治療(TSプロトコール)の「手動処理」については、こちら。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

 

新着記事のお知らせを配信しています。フォローしてくださいね!

Posted by 藤野ナオミ