慈悲の瞑想をしても、慈しみの心が育たないのは?
慈悲の瞑想を毎日続けたお陰で、随分と心穏やかな日々を送れるようになりました。
ですが、私自身に「慈しみの心」が養われたとは、とうてい思えません。
なぜ、「慈しみの心」が育たないのか、考えてみました。
私にあるのは「慈しみ」ではなく「あわれみ」
あなたがしていることは、あわれみ。
身近な人から言われ、私はショックを受けました。
私があの人と同じ立場だったら、本当にいたたまれない気持ちになると思う。
何か、私にできることはないかしら。
そう思って、したことだったんだけど……。
とはいえ、私が相手の言葉にショックを受けたのは、ある意味、図星だったからです。
私は以前から、自分の言動に、慈愛が欠けていることを自覚していました。
母性にあふれ、慈愛に満ちた人物とは、ほど遠い私。
豊かで鋭い感受性をもったその人は、私の在り様を見抜いていたのです。
毎日、慈悲の瞑想を続けていれば、「慈愛(慈しみ)」が育つのではないか。
そんな風に期待していたにも関わらず。
慈悲の瞑想を毎日続けても、私の中にあるのは「あわれみ」。
私が周囲の人に行う親切な言動は、「慈愛(慈しみ)」から生じたものではありません。
「人の役に立つ人間であることを証明したい」という、独りよがりな偽善だったのです。
※「慈悲の瞑想」とは、「慈悲の心(慈しみの心)」を育てるために、決められた言葉を、静かに心にしみこんでいくように念じることを言います。
※「慈悲の瞑想」については、こちら。念じる言葉(全文)も書いてあります。
「慈しみ」に欠けるのは自分を否定しているから
慈愛に欠けた自分自身にガッカリした私。
「マインドフルネス」の状態になって、自分に向き合ってみました。
「マインドフルネス」とは、ゆっくりと深呼吸をしながら、目をつぶり、今ここで起きていることに意識を向けていくこと。
瞑想状態とも言えます。
「マインドフルネス」の状態になると、自分で自覚できている意識(顕在意識)の覚醒がゆっくりと低下していきます。
すると、普段の生活では意識していないけれど、無意識の中に眠る大切なものが浮かび上がってくるのです。
その状態を保ちながら、自分自身に声をかけてみました。
慈しみや慈愛は、どうやったら育まれるんだろう。
すると、自分の内側から、言葉がわいてきました。
まず、自分自身を愛で満たしなさい。
自分を満たし、あふれ出した愛が、慈愛となり、周囲の人へと流れていきます。
自分でも、そんな答えが出てくるとは思わず、正直、ビックリ!!
もしかしたら、どこかで聞きかじったことかもしれません。
ですが、普段は意識にはのぼらず、無意識の中にたくわえられていた知恵が、「マインドフルネス」によって、立ち現われてきたのでしょう。
私は、自分の中からわいてきた言葉に、大いに納得しました。
私に慈しみや慈愛が欠けているのは、自分を愛していないからだ。
以前は、自分を全否定していた私。
慈悲の瞑想、そして、「ハコミセラピー」での学びを続けることによって、「私は私」と、自分を受け入れられるようになってきました。
それでもなお、私の中の一部が、ありのままの私に失望しているのです。
※「ハコミセラピー」とは、「マインドフルネス」を使ったセラピーで、心と身体の両方に働きかけていきます。
自分を責める言葉がわいてくる
ふと気づくと、私の脳内には、自分を責める言葉が飛び交っています。
息をするように、ごく自然に、自分を責める声がわいてくるので、あまり気に留めたことはありません。
試しに「マインドフルネス」の状態になって、自分を責める声に意識を向けてみたことがあります。
そうしたら、こちらが気押されるぐらいの、ものすごい勢いで、私を責めてくるではありませんか。
いやはや、風圧でひん曲がって、骨肉が削られるほどの勢い。
こんなヘマをして、本当に能力がない!
職場の人たちから、使えない奴だと思われたに違いない!
愛想もないし、誰からも信頼されない、ダメ人間!
自分でも、これほどの勢いで自分自身を削っているとは、夢にも思いませんでした。
せっかく、慈悲の瞑想の時間を取って、自分を慈愛で満たしても、端から削られていく。
周りにあふれ出すまで、私の中に愛がたまることはない。
だから、私には、慈しみや慈愛の心が現れない。
逆に言えば、猛烈な勢いで自分を削りまくる声が、慈悲の瞑想を唱えている間は静まっているので、心のダメージが減少したんですね。
私を責める声は悪者ではない
私を責める声が、猛烈な勢いを持っているのは。
私をより良い人間にするため、叱咤激励するという「使命」をもっているからです。
私が3~4歳の頃、母は嫁姑問題で心が折れ、行き場のないイライラを私にぶつけるようになりました。
母自身、つらい生い立ちを抱えており、自分一人で感情を処理することが難しかったのです。
やや理不尽に怒られる私。
「私が悪い子だから、怒られるんだ」と信じ込む。
「このまま、ママに嫌われたら、死んじゃうかもしれない」と怖れる。
「だったら、良い子になって、ママに好かれて、生き延びるしかない」と決意する。
母に好かれるような素晴らしい人間になって生き延びるため、自分を叱咤激励するメカニズムが生まれました。
ある意味、命がかかっているので、理想的な人物像から少しでも外れると、鬼気迫る感じで、私を修正しようとするのです。
自分が生き延びるために、より良い人間になろうと必死に頑張る小さな子が、いまだに私の中にいます。
母に嫌われても、母が亡くなっても、しぶとく生き延びている現実があるのにも関わらず。
この小さな子と付き合っていきながら、自分を責める機会を減らしていくしかないんだなあ。
でも、待てよ。
「慈愛に満ちた人間になりたい」と思うのも、「母に好かれるような素晴らしい人間になりたい」という願いの一端かもしれない。
まずは、「自分らしく生きること」を大切にして、「慈愛が育まれたらラッキー」、ぐらいに考えよう。
そんな風に思いました。
今回は、慈悲の瞑想を続けても、「慈しみの心」が生まれないからくりについてお伝えしました。
目覚めている間、ずっと慈悲の瞑想を唱え続けていれば、私を責める声は活躍の機会を奪われ、私の中から慈愛があふれるほどになるかもしれません。
でもね、目覚めている間、ず~っと慈悲の瞑想を唱え続けるという気力がなくって……。
私を責める声と、どう付き合っていくか。
これが、今の私の課題です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※自分の課題に向き合い続けていたら、自分を責める声を消す方法が見つかりました!