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身体の感覚に意識を向けると自分にとって必要なことが起きる

2024年8月6日

身体の中で起きている感覚を頼りにして、自分自身にふれていく「フォーカシング」。

私が初めて行った「フォーカシング」は、それはそれは、不快極まりないものでした。

ですが、そのときの体験を通して、「身体の感覚に意識を向けると自分にとって必要なことが起きる」と気づいたことについて、お伝えします。

 

自分の身体に意識を向ける「フォーカシング」とは?

 

「フォーカシング」は、アメリカの臨床心理学者、ユージン・ジェンドリンが、編み出した方法です。

身体の中で起きている感覚(気になる感じ)を頼りにして、自分自身にふれていきます。

自分をより深く知ることができ、自己成長や悩みの克服をうながすと言われています。

 

手続きは、以下の通り。

①身体の内側に注意を向ける。
目をつぶり、頭のてっぺんからつま先まで、身体の部分に、上から順番に注意を向けていき、どんな感じがするか、見ていく。

②身体の中で、「気になる感じ」があるかを見つける。

③「気になる感じ」に、ピッタリくる言葉を探していく。
「気になる感じ」に、『〇〇な感じなんだね』と声をかけ、ピッタリくるかどうか、確認する。

④「気になる感じ」を、じゅうぶんに味わう。

⑤終わりにする。

 

「フォーカシング」「マインドフルネス」は、体験するものが、似ている気がします。

 

ちなみに、「マインドフルネス」は、「今起きていること」に意識を向けていくこと。

「フォーカシング」同様、ゆっくり深呼吸をしながら、目をつぶったほうが、「今起きていること」に意識を向けやすくなります。

ただ、「マインドフルネス」の場合、身体の感覚だけでなく、周りの音、自分の中に起きてくるイメージ(映像)など、感じとる範囲が広い印象です。

 

「フォーカシング」での不快極まりない体験

 

 

私が、初めて「フォーカシング」を体験したのは、大学院(臨床心理学専攻)での演習のとき。

イスに座って目をつぶり、教授のガイドのもと、自分の身体に注意を向けていきました。

 

まずは、頭から順番に、身体の感じに注意を向けるプロセス。

その後、「一番気になる感じは、身体のどこにありますか」とガイドされたとき。

 

いきなり、両肩のつけねから、両腕が切断されたかのように、感覚がなくなりました。

 

「なんだ、これは!?」と、驚いたと瞬間。

イスに座ったままの身体が、ぐるんと前方向に、一回転するような感覚。

吐き気も、こみあげてきました。

 

それを伝えると、ガイドをしていた教授から、目を開けるよう言われました。

教科書的には、「変性意識」、つまり、「異常な意識状態」。

「フォーカシング」では扱わない、「対象外の体験」です。

 

深呼吸をしてから、目をつぶり、再び「フォーカシング」のプロセスに入ると。

またもや、両肩のつけねから、両腕がなくなってしまうという感覚が生じました。

ところが、しばらく身体の感覚を感じ続けていくと、太ももの上に、手のひらの感覚が現れてきます。

 

肩のつけねから手首まではないのに、手のひらだけが存在する、何とも言えない、イヤ~な感じ。

しかも、肩のつけねから、赤い管のようなものが、手のひらに向かって、ヘロヘロと伸びていくではありませんか。

 

骨のような、血管のような、筋肉繊維のような、心もとない感じのひも状のもの。

肩のつけねと手のひらが、赤い管でつながり、ちょっとホッとした、そのとき。

 

今度は、頭の上のほうから、「私を責める女性の声」が、聞こえてきます。

 

こんなのは、フォーカシングじゃない!

心地よい、自分への気づきを深めるようなものでないといけない!

他の学生も、げんなりしている!

大学院にまで来て、この程度だなんて、情けない!

 

終わった時には、ぐったりしていました。

 

他の学生はみな、「リラックスした」など、ここちよい体験を報告しており、不快な体験をしたのは私だけ。

やっぱり私は、ダメな人間なんだ。

ひとりで取り残されたような気持ちになりました。

 

その後も、「フォーカシング」の研修会などに参加して、「今度こそ、心地よい体験を!」と、意気込んでいたにも関わらず。

お腹の中を大きなヘビがずるずると動いていく感覚を感じるなど、不快極まりない体験が続きました。

 

身体の感覚に意識を向けると必要なことが起きる

 

身体の感覚に意識を向けると、頭で考えただけでは分からないような自分の課題が、明確に出るんだなあ。

ある意味、自分にとって必要なことが起きるんだ。

 

大学院生だった当時は、全く気づかなかったのですが、最近になって、驚きとともに、しみじみ感じ入っています。

 

不快極まりない身体感覚に現れていた自分の課題

両腕が肩のつけねから消えてなくなり、ぐるんと前方向に、一回転するといった、「不快極まりない身体感覚」

今思うと、身体が、「こんなに大変な状態なんだ!」というメッセージを放出してきたと言えます。

 

「フォーカシング」に取り組むまで、私は、自分の身体に注意を向けることが、全くありませんでした。

自分の身体はおろか、自分自身を大切にするとか、いたわるといった意識が、そもそもなかったと言えます。

 

私の意識は、「母に褒められるような立派な人間になること」に向かっていました。

母にののしられ、罵倒され続けた過去を引きずり、「立派な人間になれるはずがない。でも、ならなくちゃ」と未来に不安を抱えながら、全速力で走り続ける感じ。

「今ここにある自分」に意識を向けることはありませんでした。

 

ですが、身体は、「自分を大切にしていない」といった自分自身の課題を、ちゃんと分かっていたのです。

 

※「両腕が肩のつけねから切断されてなくなる」という身体感覚に込められた、別のメッセージについては、こちら。

 

私を責める女性の声に現れていた自分の課題

上のほうから誰かに声をかけられたように、ハッキリと聞こえた「私を責める女性の声」

当時は、「幻聴が聞こえた」と思うほど、ゾッとするような体験でした。

 

今なら、分かります。

これは、私の母の声です。

母の思い通りにならないと、気が済むまで、私を罵倒し、ののしった母の声。

 

その後、20年近くにわたる自己探究を続けた結果。

私が苦しい思いをする根底に、「自責の念(自分を責める内なる声)」があることに気づきました。

 

母の言動を取り入れ、私自身を鼓舞する部分が、この「自責の念」

私がより良い人間になれるよう、必死に頑張っている部分でもあります。

ですが、私の母と同様、鼓舞するために、容赦ない言葉でののしるという方法しか知らないんですよ。

 

「自責の念」が嵐のように吹き荒れるため、とてもではないけれど、自分を大切に思えない。

そして、心が削れに削れ、地獄の業火に焼かれるような苦しみを感じ続けている。

 

今、思えば、「私が生きづらいと感じる原因は、これです!」と、私の根本的な課題を知らせるようなメッセージでしたね~。

初めて自分の身体に注意を向けたときに、すかさず現れていたのですから、驚きです。

 

 

面白いもので、身体の感覚に意識を向けると、その人にとって必要なことが起こります。

私の場合、不快極まりない身体感覚や自分を責める声を通して、私自身の課題が浮き彫りにされました。

人によっては、過去にツライ体験を重ねてきたからこそ、身体の感覚に意識を向けると、穏やかで温かい感覚が出てくるかもしれません。

心地よい感覚が起こった場合は、「自分に必要なものはこれですよ」という形で、自分の課題が何であるかが提示されているのです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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